1953年、京都鴨川の河川敷で産声を上げた立命館大学アメリカンフットボール部パンサーズ(旧称:グレーターズ)。関西学生リーグには5番目のチームとして加盟。しかしそのチーム名が全国のフットボールファンに知れ渡るには、40年近くにも及ぶ年月が費やされた。 チームは長い助走期間を経て、“闘将”平井英嗣前監督(現総監督)がヘッドコーチに就任した80年代後半より、大学の強力なスポーツ政策の展開にあと押しされ、急速に力を蓄え始める。 89年、京都大にリーグ戦初勝利(14−6)。90年には、念願であった関学大にリーグ戦初勝利(13−12)を成し遂げ、88年以降は、毎年リーグ3位以上の戦績を残す強豪校として頭角を現してきた。 |
94年。京都衣笠から現在のBKC(びわこ・くさつキャンパス)に本拠地を移転。このフットボール専用施設を擁したキャンパスでの環境整備が、創部41年目の関西学生リーグ制覇、悲願の甲子園ボウル初優勝となって結実する。 96年にも関西学生リーグ同率優勝(プレーオフ敗退)、98年には2度目の甲子園ボウル制覇を果たし、いまや日本を代表するフットボール強豪校である。 2002年シーズンのパンサーズは、古橋ヘッドコーチが率いる新指導体制のもと、始動2年目となる“本場直輸入オフェンス”が見事に開花した。 「昨年は乗り慣れないスーパーカーに乗って試行錯誤。そして今年は完璧に乗りこなしている」(平井総監督)。 米国NCAAフットボール界の超名門校オクラホマ大学で、長期研修を受けた橋詰コーチが持ち帰ったショットガンオフェンスは、エースQB高田のプレー理解度が進むとともに、爆発的な破壊力を発揮。その名は“リッツガン”と呼ばれ、関西学生リーグの対戦相手は皆、畏怖の念を持って記憶に留めた。 |
誰しもが「エースQB高田の並はずれた身体能力があってのリッツガン」と考えていた。しかし宿命の関学大戦で、その仮説は否定される。 開始早々、ロングボムによる先制TDを演出したQB高田がサイドライン際でハードヒットを受け、左肩を骨折し負傷退場。控えのQB椙田がハドルに混じる姿を見たとき、多くの関学大ファンは「逆転勝利」を少なからず意識したに違いない。 だが“リッツガン”は、そのファンの期待を木っ端微塵にうち砕いてあまりある完成度を極めていた。 必死で追いすがる関学大を相手に「QB椙田でも基本は同じプレーコール」(橋詰コーチ)を繰り出した結果、関学大のリーグ戦最多失点の勲章までついた圧勝劇を、立命館慶祥高フットボール部出身の“道産子”QB椙田が演じきったのだ。 その勢いは甲子園でも留まることなく、QB椙田は初の公式戦スターターながら甲子園ボウルMVPを受賞する。 今季のパンサーズの強さは、この圧倒的なオフェンス力だけではない。「特にDL陣は過去最強」(古橋ヘッド)とする強力なディフェンス陣は、初優勝の94年を彷彿させる3回生アスリートを軸としたタレント揃いのメンバー構成を誇る。 戦いの最終章ライスボウルで、ついにそのポテンシャルを遺憾なく発揮。社会人チャンピオンのシーガルズオフェンスを僅か2本のTDに抑えこみ、チームを勝利に導いた。 「去年、関学が達成したことを立命のやり方で」(DL飾磨)。 2002年シーズンイヤーブックのページの片隅に綴られたこの想いがチームの総意となって、創部50周年を迎える栄えある年に『歴史の扉』をこじ開けた。 |
FINISH RESULT 2002 | ||||
9月 8日 | ○ | 72-0 | vs 同志社大学 | |
9月16日 | ○ | 69-7 | vs 大阪産業大学 | |
9月29日 | ○ | 59-7 | vs 神戸大学 | |
10月14日 | ○ | 59-0 | vs 甲南大学 | |
10月27日 | ○ | 31-3 | vs 京都大学 | |
11月 9日 | ○ | 48-6 | vs 近畿大学 | |
11月24日 | ○ | 48-14 | vs 関西学院大学 | |
甲子園ボウル | 12月15日 | ○ | 51-14 | vs 早稲田大学 |
ライスボウル | 1月 3日 | ○ | 36-13 | vs シーガルズ |